さくらインターネットの歴史

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さくらインターネットは先日12月23日で19周年を向かえ、20年目の年になりました。 せっかくQiitaのAdvent calendarの最終日を書かせていただくことになったので、少し技術ネタから離れて、会社の歴史について書いてみたいと思います。


創業期

さくらインターネットが創業されたのは、1996年12月23日です。 京都府舞鶴市にある、国立舞鶴工業高等専門学校(舞鶴高専)の寮の一室で創業されました。
もともと、私がUNIXとTCP/IPネットワークが大好きで、FreeBSDで運用していたサーバーを学内の友人知人に貸していたのがベースですが、だんだんと学外の人が利用するようになり、SINETにつながっていたサーバーに対する風当たりも強くなったものですから、独自ドメインをとってお金を頂いてサーバーを運用することになったのが創業のきっかけです。
ちなみに、さくらインターネットという社名の由来には色々とありますが、最初にsakura.ne.jpというドメインが取れて、さくらウェブというサービス名にあわせて「さくらインターネット事務局」という運営名にしたのが直接の由来です。
さて、12月23日にsakura.ne.jpというドメインの申請を行い、それと平行してサーバーを置く場所の選定に入りました。 クラウドなどない時代ですし、専用サーバーすらまだない時代。常時接続は非常に高価でした。
仕方がないので、舞鶴市内にあった3つのプロバイダーに、「エンジニアとして労働力を提供するから、無償でサーバーを置かせてくれないか」という連絡をして、唯一返信のあったダンスインターネットに最初のサーバーを置かせて頂くことになりました。
ちなみに、ダンスインターネットを運営するウメキーコーポレーションの梅木さんには、いまでも監査役をやっていただいていて、いわば創業の恩人とも言える方です。
昔のラック
晴れて1月から募集を開始したのですが、不思議なことに口コミでポロポロと申し込みを頂くことになり、舞鶴高専の恩師である仲川先生から言われていた「1000件はいかんとあかんで」というラインを無事に超えることができ、順風満帆のように見えましたが、話はそう上手くいきません。
サーバーの負荷が上がり頻繁にダウンするわ、通信回線がパンクしてアクセスできなくなるわ、散々な状況となり、早々にデータセンターの利用を検討する羽目になります。
その当時、ダンスインターネットの上流は、ご存知高橋徹さんの経営する東京インターネットで、東京サーバーファームというサービスを紹介いただきました。これによりデータセンターという仕組みを知ることになり、結局値段を比較した上で1997年の夏から日本高速通信の吹田ICにあるラックをお借りすることになりました。村田さんという当時の営業担当の方には大変無理を言ったのを記憶していて、感謝しかありません。
当時のバックボーンは10Mbpsで、当時一般的だったT1の1.5Mbpsと比べても、かなり高速な回線であり、さくらインターネットは回線が強いと言う戦略も、この頃から考えられていました。


大阪へ

明石海峡大橋データセンターに移行し、ずいぶんと回線環境も改善したのですが、サーバーメンテナンスをするために舞鶴から吹田まで往復する日々を送る中で、だんだんと限界も見えてきました。
また、一人で事業を続けるのも労働力的に苦しい中で、ダンスインターネットの方にも色々と迷惑をかけてしまう状況にあり、1997年12月に一年後輩だった菅さんにjoinしてもらって、1998年4月には法人化して大阪へ行く決断をしました。
売上が安定してきたと言うこともありますが、データセンターに近い場所にと言うこともありましたし、そもそも舞鶴高専を卒業する歳になり、いつまでも個人事業主ではいけないと言う思いからでした。
ちなみに、舞鶴からの引越し先は宝塚で、夜間にトラブルがあっても吹田ICまで20分ほどで行ける場所であり、そこで後からjoinした萩原さんとともに3人での共同生活が始まったのもこの頃です。この3人は今でもさくらインターネットの大株主であります。
ところで、会社を設立するに当たって、私はギリギリ20歳になっていたのですが、菅さんはまだ19歳でした。登記所に行ってはじめて知ったのですが、未成年が取締役になるには親権者の承諾が必要で、戸籍謄本を添付しなければならないと言うことでした。
もう大阪の事務所の契約も迫っているし、4月9日には登記をしないといけない、どうしよう、という話をする中で、ラッキーなことがひとつありました。それは明石海峡大橋の開通です。
菅さんの本籍地は淡路島で、4月8日に2人で行きましたが、明石海峡大橋の開通は4月5日のことで、まことに運がよかったわけです。
結局4月9日に、有限会社インフォレストという会社を無事に設立でき、その一部門としてさくらインターネット事務局を開設しました。


笹田さんと小笠原さんとの出会い

事務所1998年4月、大阪に出る準備をしていたころ、2通のメールを頂きました。
一通はエス・アール・エスという会社の社長の笹田さんからです。さくらインターネットと同じく吹田のデータセンターを利用していた、ハウジングや専用サーバを提供していた会社です。
日本高速通信から直接ではなく、エス・アール・エス経由でまとめてラックや回線を買わないかと言うご提案で、それからお付き合いが始まります。結局、うちはラックや回線を仕入れて、うちからはサーバーハードウェアやドメインなどをおろすと言う、持ちつ持たれつの関係が始まりました。
ちなみに、エス・アール・エスとはその2年後に合併することになり、さくらインターネットの起源のもうひとつの会社でもあります。

もう一通は、設計事務所でITインフラを担当されていた小笠原さんからです。ドメイン系のメーリングリストでやり取りをする関係で、法人化したなら一度会いたいと言う話でした。ちなみに、DMM.makeとかnomadとかをやっている、あの小笠原さんです。
私が20歳、小笠原さんが26歳と言う、若者2人で、なんかさくらインターネットを盛り上げたいね、という話をしていました。
また、小笠原さんが最初に独立された際に、私も一部出資させていただくことになるなど、起業をした人たちのつながりが出来てきました。

この2人との出会いで、さくらインターネットは大きく成長に舵を切ることになります。
笹田さんは、「自分でデータセンターを作りたい」「IXにつないで自社ASをとってバックボーンを強くしたい」と言いました。
小笠原さんは、「VCからお金を集めて大きな投資をしよう」「いつか上場しよう」と言いました。
私自身も漠然と考えていたことですが、大言壮語だなあと思いつつ、言い続ければ何とかなるもんだと感じています。

1999年、東証にマザーズが創設されるなど、にわかにベンチャーブームが広がり、ITバブルが広がり始めます。
同じ年に、私と笹田さん、小笠原さんの3者の出資で、正式に「さくらインターネット株式会社」が設立され、私が社長をすることになりました。
翌年2000年には、1998年に設立したインフォレストや、エス・アール・エスを吸収合併し、エスアールエスさくらインターネットという会社になり、ジャフコをはじめとする複数のベンチャーキャピタルから出資を受けることになりました。
太田昭和監査法人(現新日本監査法人)が監査をはじめ、野村證券が主幹事となり、いま思えばけっこうスピード感のある会社なんだなと思います。


社長を辞めたときのこと

VCからの出資も順調に進み、上場に向けて準備が始まりましたが、私の心は晴れません。
私自身は、エンジニアを中心とした、自由な社風と言うのを標榜していたのですが、上場に向けて社内が変わる中で、寛容な雰囲気がなくなり、何でもかんでもルールルールという嫌な雰囲気になってきました。
事あるごとに、色々と反発していたのですが、変わらない社風の中で方向性の違いを感じて、私は社長を辞することにしました。
そして、一緒に経営をしていた笹田さんに社長をやってもらうことになりました。
まだ22歳のころでしたし、今から思えば「若いな」と思うわけで、自分のコミュ力不足が原因だったんですが、ロックバンドのように方向性の違いが許せなかったという強い意志もありました。
本当は会社を辞めて、もう一度やり直そうと思っていたのですが、強く慰留されて副社長として残留することになり、主に技術系の担当をすることになります。
この頃には少しずつ社員も増えて、特に私がいなくても会社は回るなぁと、なかば寂しさと諦めもあったのですが、その頃はITバブル崩壊という激動の時代のはじまりでもありました。
初めての本格的なデータセンターを作ったのですが、お客様がまったく入らず、借入金の返済にも事欠く悲惨な状況になりつつありました。
そのような状況で、専用サーバーサービスの本格的なリニューアルなど、私でなければ出来ないこともたくさんあり、社長を辞した後もサービス作りの先頭に立ってとにかく「がんばる」という状況で、理想の会社云々など言ってられない状況となり、のちのちまで禍根を残すことになります。


さくらのレンタルサーバ

2004年、創業以来の事業であった「さくらウェブ」をリニューアルして、「さくらのレンタルサーバ」を開始し、1000円だった価格を125円にまで下げ1/8の価格で提供することになります。
社内では反対が多かったのですが、当時は共用ホスティングの件数も1万を切って減り行く中で、攻めるかやめるかの決断に迫られていました。
当時は専用サーバやハウジングの売上が増え、もはや共用ホスティングは自然減で良いんじゃないか?という雰囲気もありましたが、「私たちは何を提供する会社なのか」という議論をする中で、やはり共用ホスティングはやらなければならないと理解してもらって大改定しました。
8倍のお客様を取れれば勝てる、という話をしていたのですが、今となれば平均顧客月単価は500円となり、40万以上のお客様にご利用頂く、当社主力サービスになっています。
攻めてもどうなるか分からないという中で躊躇する会社、組織は多いですが、やらなければ成せないというのは真理だと感じます。
ちなみに、笹田さんの座右の銘は『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』だったなぁと、しみじみ思い出します。
私の座右の銘は『思い立ったが吉日』です。


東証マザーズに上場

10.12東証上場 015.jpg1999年に小笠原さんと出会って、上場というものを意識し、VCから出資をもらって、監査法人、証券会社と契約したわけですが、2002年ごろに上場しようと思っていたスケジュールはずるずると延びていました。
ようやく2004年にレンタルサーバも改定でき、収益が安定してきて、上場審査を受けることになったのですが、上場承認寸前で西武鉄道の虚偽記載事件が起こります。
すべての上場審査は停止され、2005年の春までずるずると引き延ばされた挙句、上場承認を受けることは出来ませんでした。
仕方がないので、大阪証券取引所ヘラクレスに申請したのですが、ちょうど大阪証券取引所の大規模システムトラブルがあり、システムの処理能力不足を原因として上場申請の新規受付がすべてストップされるという嘆き目にあい、上場は諦めることになりました。
結局、その夏にもういちどマザーズへの上場申請を行い、なぜかトントン拍子で審査が進み、無事に2005年10月12日に上場することが出来ました。
今になって思うのは、会社経営というのはさまざまな外因にさらされ、自分たちだけの都合だけでは進まないわけですが、外因を理由にせず、やるべきことをちゃんとやるしか無いんだな、ということでしょうか。


債務超過と社長への復帰

2005年に東証マザーズに上場してから、会社は大きく変わりました。
なかば上場ゴールのような雰囲気もある中で、どのようにするのか右往左往する状況が続き、とにかく新しい事業を、という雰囲気の中で数々の会社を買収し、コントロールが効かない状況になりつつありました。
そのころ、子会社は5社以上あり、ほぼすべてが赤字と言う悲惨な状況で、がんばってくれていた会社もあったものの、財務状況は最悪の状況になり、最も力を入れていたオンラインゲーム事業もついに黒字化することなく減損することとなりました。
結局、2007年11月には債務超過となり、私が再び社長を引き受けることとなります。
最初に仕事は、社員と翌年4月に入社する新卒者への説明です。
そして、銀行へ行き返済期限の延長をお願いし、第三者割当増資の話をまとめ、子会社の売却をするという、一介のエンジニアにとっては重い仕事でしたが、経営者としては重要な経験のひとつになったと感じています。
ちなみに、銀行は「雨の降っていないときに傘を貸し、雨のときに取り上げる」と言うのは本当で、債務超過になってとある厳しめの都市銀行から言われたひとことが、「お金が無いなら今すぐ返してください」というものでした。
ただ、同時に感じたのは、やはり借りた金を返せない会社が悪い、そのような経営をしてきた経営者が悪いということでもあって、銀行に原因を求めても仕方がないということですし、事業にちゃんとコミットしてくれる銀行にもたくさん出会いました。まぁ、当時は理不尽だし無力感を感じたわけではありましたが。


石狩データセンター

2009年の夏、大阪本社に北海道庁大阪事務所の杉中さんとおっしゃる所長さんがいらっしゃいました。
聞いてみると、北海道にデータセンターを作らないかということ。
北海道にデータセンターと言う発想がなかったので、お断りしていたのですが、御社のようなホスティング中心の会社なら北海道が良いですよということを何度も話しにこられて、白い恋人を毎回もらっていた後ろめたさもあいまって、2009年12月に北海道へ視察に行きました。
聞くと見るとは大違いというのは本当で、開けた大きな土地に、十分なインフラを目の当たりにしました。
石狩では田岡市長が視察バスに乗車され、土地だけでなく、海底ケーブルの陸揚げ局や、特別高圧変電所、コンビニやバス停ほか、さまざまな事業に必要なインフラをご説明いただき、北海道の可能性を感じることになります。
石狩湾新港地域は地震や津波、火山噴火、河川氾濫などのリスクが低く、雪も内陸ほどは積もらず、札幌からも近くてエンジニアが雇いやすく、加えて特別高圧電力や、光ファイバーの調達がしやすいという、本当に理想の環境でした。
そのころ、東京のデータセンター増設を検討していた時期なのですが、どう考えても投下資本に対するリターンが少なすぎると言うことをFS(事業可能性)の数字が証明しており、都市型データセンターでハウジングをするというビジネスモデル自体が破綻していると言うことは明確でした。
また、AWSなどのクラウドが米国ではやり始めていて、当社の取るべき戦略は創業以来の強みを持つホスティング分野であるのは、誰の目から見ても明らかでした。

こういった状況の中で、データセンターを石狩につくり、ハウジングからホスティング・クラウド分野に舵を切るという、大きな経営方針が作られていきました。
2010年の夏には「石狩データセンター」を発表し、2011年3月10日、あの悲惨な震災が起きる前日に、翌日に起こることなど予想もしない中で起工式が挙行されました。
結局、震災の影響もあって工期は危ぶまれましたが、大成建設さんのおかげもあって2011年11月15日に開所式を迎えることになりました。
そのとき時代は大きく変わっていました。ハウジングビジネスは大資本のものとなり、人々の関心はエコに向き、多くの局面でクラウドが使われるようになりました。
歴史に"もし"はありませんが、あのとき東京にデータセンターを作っていたら、いまはどういう会社だったんだろうと感じます。
実際に、2007年から2015年までの売上の推移を見てみると、ハウジングのほうが多かった状況からホスティング中心になっていることがよく分かります。
サービス別売上高2.png


さくらのVPSとさくらのクラウド

石狩データセンターの計画と平行して進んでいたのが、さくらのVPSというサービスの開発です。
私自身は、とある櫻花の画像生成(通称とあるジェネレーター)とか、進撃の巨人風のロゴ画像を生成するウェブサービスを提供しています。
とあるジェネレーターを作ったのは2009年12月のことで、その後ツイッターなどでシェアされていく中でアクセスが爆発的に増えてきました。
その中で、さくらのレンタルサーバだとスペックが足りないし、専用サーバだと納期がかかりすぎると言うことで、AWSを使う機会があったのですが、その便利さに驚くとともに、大きな期待感を持ちました。
そして、2010年にはAWSのユーザー会であるJAWSUGが立ち上げられた際には、第一回のJAWSにおいてゲストトークをしたあげく、懇親会の乾杯の挨拶もすることになり、さくらの社長なのに「AWS最高!」の掛け声とともに乾杯したと言うのも良い思い出です。

私は、そもそもVPSや仮想サーバには懐疑的で、「安値を追求するためにVPSをやっても過当競争になるだけなのでやりません」とか取材で答えていたこともあります。ちょうどJAWSUGの一年前2009年5月のことです。
ただ、実際にAWSを触る中で、これは世界を変えるなとなんとなく感じて、自社でもVPSをやりたくなってしまい、社内に「VPSやらないといっていたけど、やっぱりやりたいんやけど...」と明かしました。
結果としては、現場も「やりたいけど、社長がやらないといっているからなんとなくダメなのかなと思っていた」、という感じの反応で、自分の日ごろのメッセージのまずさを実感するとともに、現場がやりたいのならたぶん成功するだろうと思って開発を行い、2010年9月に正式リリースを行いました。

その後、ニフティクラウドが国産ながらパブリッククラウドとして十分勝負できるサービスを出してきて、私は非常にあせりました。
VPSはクラウドではないと言い続けて、安くて早くて手軽に借りられる仮想サーバだけを追求してきたわけですが、どうも市場は柔軟性やら拡張性を求めていると言う実感を持ち、2011年3月に私たちもIaaS型パブリッククラウドをやるべきだ、と有志を集めてチームビルディングをしました。
このときに重視したのは、VPSとはまったく違うチームにしたこと。どうしても既存のサービスを改良すると言う考えだと時間もかかるし、自由な開発は難しいかもしれないと思ったからです。またVPSの良さを続けるためにも既存のチームを残したほうが良いと言う考えもありました。
結局、2011年11月15日に石狩データセンター開所と同時にサービスをリリースしました。
その後、ストレージのトラブルに遭遇し、1年間課金が出来ないという状況になりましたが、ストレージを自社内で作り上げて、なんとか課金できるレベルになったことについて、今でも大変社員に感謝しています。
当初使っていたのは、アメリカのメーカー製ストレージだったのですが、非常にパフォーマンスが悪く、やはり自社の根幹の技術は自社のエンジニアでやっていくべきだ、と言う思いを新たにしました。

ちなみに、来年にはおそらくVPS・クラウドの売上が、レンタルサーバ、専用サーバ、ハウジングを抜いて、一番大きな売上になると思いますが、5年前に0だったと思うと、時代の変化は激しいなと感じます。
サービス別売上高.png


さいごに

今回書かせていただいたものは19年とちょっとの歴史の、ほんの一部でしかありません。
また今回は石狩データセンターとVPS・クラウドまでですが、そのあともさまざまなことがありました。
新しい人たちが増えて、私が本来作りたかった自由で寛容な環境に少しは近づいてきた気がします。
必死にがんばるしかなかった10年ほど前は、「どういう会社を作るか」ではなく「どういうビジネスを作るか」と言うことだけに注力してきました。
そのときはそれしかなかったのですが、あとになって「どういう会社にするか」を考えるのは本当に労力のいることですし、色々と社風に悪影響を残しました。
先月には東証一部に上場し、起業家としてはひとつの目標を達成したわけですが、個人的にはあまり感慨深いとかいう気持ちはなく、あぁ上場できたなぁという位の気持ちだというのが正直なところです。
いまはとにかく「どういう会社」で、「どういうビジネス」をして、「どういう価値」をお客様に提供できるのか、社員が「どう働き甲斐をもてるのか」ということを、必死で考えています。

ただ、こうやって振り返ってみると、本当にいろんなことがあって、いろんな人との出会いの中で、さくらインターネットか形作られてきました。
失敗もたくさんして、社員の給与を払えない事態になりそうになったことも過去には何度もありました。
いまは上手く行っているように見えますが、そういうときこそ危険だと言うのは経験から明らかですし、より高い成長をしないといけないのも当然です。
また、それまで当たり前だと思っていたことを大胆に変化させて成長してきたことを考えると、常に柔軟に物事を捉える重要性を痛感します。
これからも歴史に学びながら、過去の自分に恥ずかしくないよう、経営に携わっていきたいと思います。

追記
さくらのVPSとさくらのクラウドという節を追記しました 2015/12/26