阪堺線

昔、東京や大阪にも路面電車があり、街中を縦横無尽に張り巡らされた架線の下を、小さな電車が走っていました。
その後、モータリゼーションの波が押し寄せるにつれ、街中の電車はその大半が地下にもぐってしまい、活躍の場は無くなったように見えます。

しかしながら、ちょっと中心部から外れると、大阪にも阪堺電車という路面電車が残っていて、豪快に道の真ん中を疾走しています。
今回は、せっかくの休日に家で寝ているのももったいないと、阪堺線(本線)の恵比寿町から浜寺駅前まで全線を乗り通してみました。

始発駅は、日本中の誰もが知る通天閣のお膝元にある恵美須町駅。
昔は東の秋葉原、西の日本橋と呼ばれるくらい、大変賑わいのあった電気街でしたが、今は梅田や難波といった便利なロケーションにある大型店に押され、少し寂れた感があります。それでも3連休の初日とあって、地下鉄の恵比寿町の電気街方面出口には、多くの人が吸い込まれていきました。それを尻目に、私たちは通天閣方面の出口へ向かい、小さな駅舎の始発駅に向かいました。
なお、電車の本数はそれなりにあるようで、10分ほど待てば折り返し浜寺駅前行きの電車がやってきました。

電車に乗り込むと、ほどなくして出発ベル。見回した限り1両の電車には十数人が乗り込んだようです。
そして、次の南霞町駅(新今宮駅)では10人ほどが乗車し、まんべんなく車内の座席が埋まる程度で堺市方面へ向かいました。

そういえば、7年前。大阪に出てきて事務所を設立した直後、大阪のほうには家を借りずに舞鶴との往復生活を数週間ほど続けていたころのことです。
夜中に暇だったことから散歩に行こうと思い立ち、堺筋本町からただひたすら南へ向かったのですが、道がわからなくなって軌道敷をとぼとぼ歩くことになりました。
それが、南霞町からまっすぐに伸びた阪堺線の線路で、都会の中にある昔ながらののどかな風景が、都会に出た直後の不安を抱えた若かりしころの記憶に、くっきりと残っています。
ちなみに、南霞町のあたりは、お世辞にもガラがそれほどいいところでもなく、単身大阪へ出てきた田舎者が夜中に歩くのは危ないことです。しかし、じゃりン子チエの舞台となったという、どこか懐かしいその町並みは、都会へ出てきたばかりで不安を抱えた当時の記憶にくっきりと残っています。
じゃりン子チエでは、にぎやかな街にバカでっかい猫が出てきましたが、残念ながら貧相な猫がウロウロしているだけで、不況の折に人気も少なく活気の薄れた今の街には、少し残念な気分も残ります。

さて、電車は家の軒先がギリギリまで迫る専用軌道をひたすら南へ向かい、南海高野線をくぐったあたりから道路の上に出てきます。ここからは、路面電車の名にふさわしく、道路上を一般の車と並び、道路信号に従って進みます。
しばらくして、天王寺から来た同じ阪堺電車の上町線と合流すると、立派な住吉大社が見えてきます。
地元では「すみよっさん」とよばれるこの社は、全国にある住吉神社の総本社であり、平成23年には1800年を迎えるとともに、式年遷宮を行うようです。(式年遷宮とは、伊勢神宮などの由緒のある神社で行われる20年ごとに本殿を新しく建て替える行事です)
ちなみに、結婚式でも有名で、うちの社員もここで式を行ったと言っていました。

住吉大社を出て、阪堺電車の車庫を過ぎると、いよいよ大和川を渡って堺市に入ります。
そして、その先の急なカーブを過ぎると、大道筋と呼ばれる大きな通りに出ます。これは昔の紀州街道で、紀州の徳川家もここを通って江戸へ向かったのでしょうか。
電車から眺めるこの通りは、多くの古い建造物が残り、江戸時代にもこうだったのであろう、古い町並みが続いています。車や自転車で通るのもいいのでしょうけれど、私はなぜか電車から眺めるのが一番だという気持ちがします。

ところで、この記事を書きながら、大道筋の途中の宿院駅周辺にある、多くの名所を知ることになりました。たとえば、与謝野晶子の生家跡もその一つであり、まだ行ったことがないその場所は、学生時代にある人からよく聞かされたものです。
ある人とは、私が中学を卒業し全寮制の舞鶴高専に入ったときに初めて会った教官で、私のクラスの担任だった河合先生です。河合先生はかなり変わった人で、入学式が終わって初めてホームルームを始められた時、いきなり饅頭の話から入ってきたのです。
なんでも、河合先生の実家は小さな饅頭屋を営んでおり、幼少の頃より手伝いをさせられ、難波の高島屋や梅田の阪急百貨店に売り子として派遣されていたとそうです。そして、この饅頭をたいそう好きだったのが与謝野晶子らしく、河合先生の実家の向かいが与謝野晶子の生家だということで、「小さい頃はこうだった」とか、「周辺にはこんなものがあって」とか、5年間聞かされました。
卒業後、河合先生の実家では大寺餅という銘菓を作っているらしいということを耳にしてインターネットで調べたことがありました。すると、確かに大寺餅という堺の名物があって、与謝野晶子も生前に大寺餅が好きであることを書いていたことを知りました。そして、大寺餅河合堂が作っているということも。
そうか。あの電車から見た町並みが、河合先生の頭の中にある風景だったんだと。あの時、先生は多分この町並みを浮かべながら、昔の思い出を語っておられたのです。
年十年も前に卒業した先輩からも、河合先生が饅頭屋の話をされていたと聞きますから、舞鶴高専に着任され退官するまでに、何千人もの人が聞かれたことかと思います。しかし、その場所を見た人は少ないことでしょう。一般的にも有名な与謝野晶子の生家は、私の同窓の人たちにとって、もっと有名で懐かしい気分のする場所であり続けます。
(ところで、与謝野晶子と河合先生はまったく世代が違うので、会ったことは無いはずで・・)

と、話が少し脱線してしまいました。
電車は、大道筋と離れ、また専用の軌道を進み、浜寺駅前に向けてラストスパートをかけます。
南海電車をオーバークロスして浜寺公園が近づいてくると、終点の浜寺駅前です。14kmを40分くらいかけて走るので、平均時速21km/hという超鈍足です。
結局、連休で賑わう浜寺駅前まで恵比寿町(南霞町)から乗りとおした人は私たち夫婦だけでした。
普通の人は難波から浜寺公園駅まで南海で行くのでしょう。実際、南海で行けば20分くらいで着いてしまいます。しかし20分位の差でこれだけの話を書けるくらい、とても楽しいミニ旅だったことは間違いありません。
最近では、乗客が減ったことによって廃線の危機にもさらされているこの電車ですが、スピード化が進む世の中では仕方が無いのかもしれません。